ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

戦争の実像と、つくられたイメージ

敗戦・終戦記念日がらみでNHKでいくつかのドキュメントをしていた。 奈良の鈴木さんも出ていた。樺太では戦後も戦わされた。あのインパール作戦のひどさもさらに明らかにされた。 どこでも軍、将校は庶民を守らず犠牲にした。病気や飢餓で死ぬのはほとんどが一般兵隊で幹部は生き延びた。玉砕しろ、最後まで戦え、自決しろと言いながら自分は戦わずに逃げたり投降し、生き延び戦後のうのうと生き続けた。 以下の朝日の記事では、戦争中の情報で、操作が行なわれていたという話。

文集は捏造、撮影前に目薬… 「誉れの子」いまの思いは 木村司、岩崎生之助 2017年8月16日04時08分 http://digital.asahi.com/articles/ASK864STBK86UTIL00Z.html?rm=426

八巻春夫さんが表紙を飾った1941年4月発行の「写真週報」。緊張した表情で皇后陛下からお菓子を受け取り、左ほおに一筋光るものがみえる

 日本兵父親が戦死したことで「誉れの子」と呼ばれた子どもたちがいた。全国各地で選抜され、東京・九段の靖国神社に参拝。「父との対面」は美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された。戦後72年。普通に悲しむことを許されなかった遺児たちはいま、何を思うのか。(木村司、岩崎生之助)      ◇  丸刈り頭の少年が、口を一文字に結んでいる。ほおには一筋の「涙」が光る。  写真の少年は、小学5年の八巻春夫君。1938年、父が中国で戦死した。  父が祀(まつ)られた靖国神社参拝のため41年3月、日本兵の遺児代表として上京。皇后陛下から菓子を受け取った。その瞬間をとらえた写真は、内閣の情報局が発行した国策グラフ誌「写真週報」の表紙を飾り、「誉れの子」の象徴的存在になった。

 それから70年余り。少年は87歳になり、山梨県南アルプス市で暮らしている。  「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、本当に涙が出ました。でも、撮影前、目薬をさされました」

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 カメラマンが密着取材し、巻頭特集も仕立てた。

 《おらあ、お父(と)うをおぶって帰ってくる》  山梨の自宅前で祖父母らに見送られるシーンの写真説明には、こんな言葉が添えられた。しかし、八巻さんに話した記憶はない。

 家を出て甲府駅へと向かう道の途中。峠にさしかかり、後ろの富士山を振り返っている写真。「登校のたびに通るこの峠道」と説明されているが、「このときに初めて行った場所」だった。写真説明は雄弁に続ける。「富士がけふは何(な)んとなく懐(なつか)しい。ふり返(か)へり、ふり返へり眺める富士の晴れ姿に春夫君の心は強く強く引きしまる」

 靖国神社での参拝。直後の写真には《玉砂利を踏んで帰る遺児たちの頰は喜びに紅潮し、足取りは軽い》とあるが、八巻さんはこう振り返る。

 「大鳥居をくぐって水で手を清めたのは覚えている。でも、何を拝んだのか、覚えていません。父に会えた、という気持ちもなかった」

 それでも、八巻さんにとって大切な思い出だという。「私が選ばれたのは、父だけでなく、母も、弟も亡くした、不幸な人間だったからでしょう。私のような子どもを、よくさがしてくれました」

 10代で一家の大黒柱を担わされた八巻さん。「お国のために活躍し、誇りだった」という父を恨む気持ちも、戦後になって芽生えた。靖国神社にはその後、行っていないが、主催者から贈られたアルバムは今も大切に保管している。      ◇

 靖国神社に参拝した遺児の感想文集が残っている。

 京都の57人分を収めた「社頭の感激」(恩賜(おんし)財団・軍人援護会京都府支部、41年発行)に、名前のある高田誠祐さん(87)は今も京都市で暮らしていた。

 《今日はいよいよなつかしい父に会へる日だと思ふとうれしさで胸が一つぱいです》 《この光栄の日を一生忘れず、宏大(こうだい)な皇恩に報ひ奉る為、立派な日本人となり父の志をつぎ、ちかつて忠孝の道を尽さうとかくごいたしてをります》

 記者が文集の写しを差し出すと、ルーペで目をこらし、きっぱり言った。

 「これ、捏造(ねつぞう)でっせ。大人が書いたんやろう」  参拝したことは鮮明に覚えている。遺児約60人と東京に向かい、寺で寝起きしながら参拝や式典をこなした。毎年夏には出雲大社島根県)などへの旅行に招待された。

 44年7月、愛知県の工場へ動員され、軍用機の翼を作った。その年も旅行の招待状が届いたが、遺児を手厚く支援する余裕は、戦況の悪化で失われていった。「辛抱してくれ」。引率の教師の言葉が耳に残る。      ◇

 戦後も、各地の遺児が集団で上京し、靖国神社に参拝していた時期があった。  田上洋子さん(77)=さいたま市=は中学入学直前の53年春、熊本県から数十人の遺児と列車で東京を目指した。母は黒い羽織で見送ってくれた。「神社にある大きな鏡に自分の姿を映すと、お父さんに守られているという思いがわいてきた」。地元に戻り、学校でそんな発表をした。  父が召集されたのは1歳のとき。2年半後の44年2月、マーシャル諸島で戦死。遺骨は帰らなかった。

 「『靖国の子』だから、後ろ指さされるようなことをしてはダメ」。戦後、母に何度も言われた。  だが、英霊や散華(さんげ)といった戦死を美化した言葉には、いつしかむなしさを覚えるようになった。「『名誉の戦死』と思わなければ遺族は救われなかったかもしれない。でも、父の死は、そんなきれいなものではない。むごいものです」

 父を知らない。それが何よりつらかった。自分も2人の子を育て、父が帰りたかったのは、ふるさとや家族のもとだったとわかる。15日正午、南の島にいる父を思って黙禱(もくとう)を捧げた。

■「国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」

 遺児たちの靖国神社集団参拝は、日中戦争が激化した39年から43年まで続いた。陸海軍大臣の訓話を聞く式典もあった。  「感激性強く而(しか)も指導者の指導を無批判に受(うけ)入れる年配を選んだ」。参拝事業を進めた軍人援護会発行の冊子には、陸軍少将のそんな解説がある。新聞や雑誌、ラジオは参拝の模様を「遺児、靖国で父と再会」と美談にして報じた。

 遺児約2千人分の感想文を分析した学習院大学の斉藤利彦教授(教育史)によると、年1回の参拝事業への参加者は計約1万8千人。国民の戦意を高揚させ、総力戦態勢をつくる狙いがあったとみられる。「父親を失った悲しみすら素直に持たせてもらえない。国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」  戦後は、52年の講和条約発効で日本が独立を回復して以降、県や遺族団体などが主催した遺児集団参拝が50年代を中心に行われた。