ロシアのウクライナ侵攻に関する日本の報道 小倉の意見
小倉利丸さんの意見
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ウクライナ経由ナショナリズムと愛国心をそれとなく煽るマスメディア
8日の夜7時過ぎのNHK「クローズアップ現代」は、ウクライナに残っている人達の深刻な事態を、現地の人達と繋いで報道していたのだが、同時に、ウクライナの外にいるウクライナ出身の人々の様子も取材しており、戦争が否応なく喚起させる庶民への理不尽な暴力を映像を通じて、私たちの感情を動員する番組になっていた。ロシア国内やロシア軍兵士への取材はない。敵のロシア軍の人間たちは砲弾や戦車といった暴力によって象徴される抽象的な存在としてしか実感できない。「こちら」の側には生身の人間が、敵はプーチンか、さもなくばプーチンの手先でしかない非人間的な機械か鉄の塊。こうして私たちの感情は、ウクライナの側に同化するような構図になる。どちらの側にも殺されるべきではない人間が同じようにいることが感じられないのだ。
NHKが取材対象とした人達、とりわけ若い男性たちには共通した傾向がある。それは、ロシア軍に侵略された国を救うために戦うことを(やむなく)決意した若者や、戦うために帰国する若者の姿だ。他方で、意識的に戦うという選択をしない若者(男性)や戦いたくないという気持ちをもって逃げてきた若者は存在しないかのようだ。ウクライナの若者たちは皆武器をとって戦うことを選択しているかのように描かれ、結果として臆病であることが言外にネガティブな態度であるかのような印象が与えられる。そして、戦場に向う自分の息子や夫を涙で送る家族たちが情緒的に描かれる。こうした映像はこの番組に限ったことではなく、ほとんどすべてのニュースや情報番組(ワイドショー)がとる戦争のステレオタイプだ。この構図のなかで、この番組をみた視聴者の心理は、臆病であることを率直に表明することそれ自体を心理的抑えられてしまうような作用が働くのではないか。
そして、こうしたスタンスに重ねあわせられるようにして、日本政府のウクライナ支援の言説が受けとめられるのだろう。日本政府は防衛装備である防弾チョッキを人道支援名目で送るというが、これらが軍事目的で利用される可能性は否定できない。学校でもウクライナ情勢が授業で取り上げられているとも報じられている。一見すると戦争の悲惨さ子どもたちに伝える平和教育のようにも印象づけられるが、果してどうなのか。
マスメディアの報道や政府、政治家たちの言動の前提になっている感情には、侵略者に対して武力によって自国の領土を防衛する軍や市民たちの行動を暗黙のうちに支持するスタンスが大前提になっていると感じる。侵略者に対して、ウクライナにおける自衛のための武力行使を肯定する立場は、誰もが、このウクライナの問題を日本に置き換えて考えるとき、やはり日本もまた自衛のための武力行使は必要であり、だから自衛隊もまた必要だ、という理屈に誘導されてしまうのは目にみえている。しかもこれが「理屈」だけでなく、感情的にもまた国家のために戦うことを正義と感じる情動、つまり愛国心とかナショナリズムを喚起してしまう。ウクライナ国旗やその色をモチーフにした戦争反対は、戦争がナショナリズムや国家に収斂する感情の動員を必須の条件としており、国旗はその象徴的な作用を果しているというシンボリックな効果に対して十分な防御ができていないように思う。国家や宗教的な絶対者に収斂するような一切のシンボルを排することこそが平和への道だからだ。
日本のメディア環境は、国家のために人命を犠牲にすることを肯定する感情が、人々を支配するように促す危険な傾向をかなり濃厚に内包していると思うのだ。やっかいなのは、こうした感情は、常に、非力な庶民を犠牲にする侵略者を撃退して、家族や地域を守るためのいたしかたない戦いという感情を内包させつつこれを国家の防衛に収斂させていく、という仕掛けをともなっているという点だ。私は、国家という観念は、人ひとりの命の重さと比べたら、比べものにならないくらい無意味な観念だと考えるから、国家間紛争などジャンケンで決着つければいいような問題だ、と前にも書いた。しかも正義と暴力の間には、力の強い者が正義であるという一般論が成り立つような相関関係はないことも明らかだ。
日本政府や改憲を見すえている自民党や右翼は、ウクライナを経由して自衛のための武力行使を支えるナショナリズムや愛国心の喚起の絶好のチャンスとみて、自衛隊合憲論をとるリベラルや野党を巻き込み、また世論に根強い9条改憲反対の雰囲気を切り崩そうとするに違いない。私たちが問われているのは、侵略されても自衛権の行使はしない、という選択を支える思想を鍛えることにある。この思想の基盤にあるのは、人間の命を賭けででも守るに値する国家など存在したためしはない、ということをいかにして説得力をもって主張できるか、にある。非武装中立とか自衛隊違憲といった主張すら稀になってしまったこの時代に、再度国家を疑うことから議論を始める必要がある。
(付記)上のエッセイには重大な問うべき問いの回避がある。一切の暴力を否定することは、可能なのか、人類史のなかで、解放のための暴力の歴史を一切否定するのか?というこれまでも繰り返し論じられてきた問いに一言も答えていないし、上のエッセイではこの問いへの答えとしてはまったく不十分だ。今、ウクライナで起きていることと、そこから日本で起きつつある国家の自衛権への肯定感情を批判するという目的を越えて、より普遍的な問いとしての暴力の問題は、別途検討すべき課題だと思っている。国家や普遍的な力(神とか民族とか性にまつわる優劣の序列)に収斂する暴力を認めるつもりはないが、暴力をめぐるそうではない在り方をも完全に否定することが可能かどうかはまだ私のなかでは留保が必要な領域である。
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小倉ブログより
ロシアの非公式グループ「戦争に反対する社会主義者」のマニフェスト。LEFTEAST掲載。
ウクライナの戦争と新帝国主義に反対する。虐げられた人々との連帯の手紙
ガル・キルン著 著者はリュブリャナ大学の研究員で、ユーゴスラビア崩壊後の移行期に関する研究プロジェクトを主導。また、国際研究グループPartisan Resistances(グルノーブル大学)の一員でもあり、スロベニアの左派(Levica)党員である。LEFTEAST掲載。
アナキストのサイトCrimethIncに掲載された論文。2014年以降のウクライナの民衆運動をアナキストの観点から冷静に分析。
戦争とプロパガンダ
Realmediaに掲載された記事
純粋な暴力の非合理的な核心へ。ネオ・ユーラシア主義とクレムリンのウクライナ戦争の収束をめぐって
The New Fascism Syllabusに掲載された論文の翻訳。著者のひとり、アレクサンダー・リード・ロスは、西側左翼運動のなかに気づかれない形で浸透しつつある極右の思想や運動について詳細に論じた本Against Fascist Creep のなかで、米国からヨーロッパ、ロシアに至る地域を包括する網羅的な現代の極右の動向を批判的に分析している。
toshimaru ogura