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にまともな意見とそうでない意見

朝日新聞にまともな意見とそうでない意見

 

本日、8月12日、朝日新聞「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」という豊永郁子さんの寄稿文が掲載された。

個人の生存は国に先行する価値とし、戦争の悲惨さをベースにした豊永さんの意見はまともと思う。

この意見を載せたこと自体、朝日新聞の成果と言える。豊永は和平派と正義派のことをちゃんと書いている。日本のメディアはこの世論調査さえしない。

 

政治家もメディア人も一般国民も、そして豊永さんの記事にコメントした江川紹子さんも、防衛省防衛研究所の思想に洗脳されている状態だ。

「できるだけ早く停戦すること、たとえウクライナが領土を失っても」か、それとも「侵略したロシアを罰すること、たとえより多くのウクライナ人が犠牲になっても」かが、議論されているヨーロッパ諸国との差は大きい。

思考が停止しているので「ウクライナ人が犠牲になっても」という条件を認識することを避けて『正義派』だらけに日本はなっている。

 

豊永さんの論考がすぐれて大事な視点を提起しているのに対して、コメントしている江川さんは日本のメディアのダメさと同じく、為政者の視点、防衛省の視点にとらわれ間違っている。ものを庶民の目から見る視点をもちきれていない。

今日8月12日の朝日新聞には、別の記事で、キーウ(キエフ)で友人になったウクライナの男性(25)から「徴兵されて前線で死ぬのは怖い」と打ち明けられたという話も載せている。

 

政治家、為政者は停戦が可能か、どうしたら停戦できるか、どうしたら停戦後西側が有利な世界の力関係になるかと考え、プーチンには軍事的に優位になるしかないという。だが私は、一貫して「停戦の方法などわからない」「それは庶民の課題ではない」と思うからこそ、ただの庶民の一人として、「戦争が起こったなら逃げる」といっている。

 

大きな「停戦」という課題をどうしたらできるかではなく、自分の命を守ること(戦争に参加して相手を殺す/殺しあうという、したくないことを避ける)を優先する。

 

どうして国家や領土や西側諸国のために自分が命がけで戦わないといけないのか。軍隊にも参加したくないし、敵を殺したくもない。

もちろん、住み慣れたところで知り合いの人たちと住み続けられたらいいが、そんなことを言ってられないほど戦争というのは根底から何もかもをひっくり返し破壊するのだ。死ぬか生きるかを迫られる。死や徴兵を待ってられない。だから逃げ出す。

 

だから男性が出国することを禁止するゼリンスキー大統領のやり方は酷いと思う。一億総火の玉となって鬼畜米英と最後の一平まで戦え、本土決戦だ、玉砕しろ、自決しろといっていたむかしの日本と重なる。

侵略側と抵抗側・自衛側は違うというのは、上から目線であり、戦場に駆り出される兵士の目線からは、無駄な戦いに消耗品として使われているだけだという視点こそが必要だ。

 

死ぬくらいなら、外国に逃げて貧困でも生き延び、そこから生きていく権利を求めて活動していけばいい。それしかない。それはもちろん苦しい道だが、そもそも戦争が起これば理不尽にもそうならざるを得ない。殺されそうなら逃げる。

 

江川さんには、自分が戦地に駆り出される兵士やその家族の視点がないのだ。戦争に自分が参加することへの徹底した忌避感と非暴力思想がないのだ。だから停戦をどうするか などといってしまう。

停戦できたらいいがウクライナが軍事的に優位に立ってロシアを屈服させないとなかなか停戦にはならない。しかしそれはむつかしい。

あるいはウクライナが敗北してロシアの勝利でも終わるだろう。それはウクライナもロシアもかなりの犠牲の上で、数か月後に来るかもしれない。だがそれも望ましいものではない。江川さんも望まない。

 

で、どちらも私には関係ない。私はそのために生きているのではない。ウクライナが勝つのはむつかしいし勝つまで多くが犠牲になる。そんな道を支持するのか。自分も参加するのか。

そうした感覚を言わない人が多すぎる。過去の戦争の実体・実相・体験談・諸作品から学んでいないと思う。

 

自分抜きに考えれば、今回のロシアや人権侵害する中国、パレスチナを攻撃するイスラエル、その他独裁国で多くの人民を抑圧する国、今ならミャンマーの国軍など、などひどい国を制裁するように西側諸国が軍事力で屈服させるのはあり得る政治と思う。リアルな政治はそういうものだろう。

だが私はそれには関わらないと言っているのだ。そのための兵士として戦いたくないと言っているのだ。

そして軍事的な政治は、必ず敵味方に多くの死者・負傷者をもたらす。一般庶民も巻き込まれ犠牲になる。戦場は悲惨である。核戦争、世界戦争になるかもしれない。だから為政者なら軍事力による解決も考える必要があるが、皆がそれに賛成し加担する必要はない。

しかもいままでパレスチナが攻撃されようと、ミャンマ-の民主派が攻撃されようと助けなかった西側諸国が、なぜウクライナには加担するのか。それは代理戦争をさせているからだ。そういうものに加担する必要はない。

 

 「国のため」なんていう言葉が簡単に使われている。ナショナリズムをチャンと批判する教育・社会運動が世界的に勝利していないということを意味する。

江川さんも、リベラル系の人で今回ウクライナの抗戦を支持する人も、「国のため」を批判していたはずなのに簡単に足元をすくわれるほどだった。

 

豊永郁子さんの論考を称賛できずに、批判した江川さんに、今の日本のダメさが如実に出ていると感じた次第である。私は、憲法9条を守り、非武装路線にすべきで、日米軍事同盟も破棄し、軍事費は低下させるべきと思う。集団的自衛権だと言って、米国とともに戦争に加担することに反対する。ロシアや中国や韓国や北朝鮮と軍事的に戦うことを拒否する。大きな政治を動かすのはむつかしい。だが自分がどうするかだけは考えられる。もし自分ならと考えて、ウクライナのことも考えるし、日本で何かが起こっても、ひとりの庶民の側から生き延びる視点で考える。

***

 

「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」 寄稿・豊永郁子さん

朝日2022年8月12日 6時30分

 

寄稿 政治学者・豊永郁子さん

 2022年7月8日の安倍晋三元首相の射殺事件によって、私たちは少なくとも一つのことを知った。銃器がいかにむごたらしく人間の体を破壊し、命を奪うかということだ。そのときウクライナのことをふと思った。このような銃撃、さらには砲撃による人間の破壊が日々起こっている。これはそれ自体がとてもよくない、恐ろしいことではないか。

とよなが・いくこ 早稲田大学教授。著書に「新版 サッチャリズムの世紀」「新保守主義の作用」。2017年5月~22年2月に本紙「政治季評」を連載。

 ウクライナ戦争に関しては、2月24日のロシアの侵攻当初より釈然としないことが多々あった。むしろロシアのプーチン大統領の行動は独裁者の行動として見ればわかりやすく、わからなかったのがウクライナ側の行動だ。まず侵攻初日にウクライナのゼレンスキー大統領が、一般市民への武器提供を表明し、総動員令によって18歳から60歳までのウクライナ人男性の出国を原則禁止したことに驚いた。武力の一元管理を政府が早くも放棄していると見えたし(もっともウクライナにはこれまでも多くの私兵組織が存在していた)、後者に至っては市民の最も基本的な自由を奪うことを意味する。

 

 

 さらに英米の勧める亡命をゼレンスキー氏が拒否し、「キーウに残る、最後まで戦う」と宣言した際には耳を疑った。彼自身と家族を標的とするロシアの暗殺計画も存在する中、ゼレンスキー氏の勇気には確かに胸を打つものがあり、世界中が喝采した。これによってウクライナの戦意は高揚し、NATO諸国のウクライナ支援の姿勢も明確化する。だが一体その先にあるのは何なのだろう。

 市民に銃を配り、すべての成人男性を戦力とし、さらに自ら英雄的な勇敢さを示して徹底抗戦を遂行するというのだから、ロシアの勝利は遠のく。だがどれだけのウクライナ人が死に、心身に傷を負い、家族がバラバラとなり、どれだけの家や村や都市が破壊されるのだろう。どれだけの老人が穏やかな老後を、子供が健やかな子供時代を奪われ、障害者や病人は命綱を失うのだろう。大統領はテレビのスターであったカリスマそのままに世界の大スターとなり、歴史に残る英雄となった。だが政治家としてはどうか。まさにマックス・ウェーバーのいう、信念だけで行動して結果を顧みない「心情倫理」の人であって、あらゆる結果を慮(おもんぱか)る「責任倫理」の政治家ではないのではないか。

 

 日本には今、ウクライナの徹底抗戦を讃(たた)え、日本の防衛力の増強を支持する風潮が存在するが、私はむしろウクライナ戦争を通じて、多くの日本人が憲法9条の下に奉じてきた平和主義の意義がわかった気がした。ああそうか、それはウクライナで今起こっていることが日本に起こることを拒否していたのだ。

 冷戦時代、平和主義者たちは、ソ連が攻めてきたら白旗を掲げるのか、と問われたが、まさにこれこそ彼らの平和主義の核心にあった立場なのだろう。本来、この立場は、彼らが旗印とした軍備の否定と同じではない。だが彼らは政府と軍の「敗北」を認める能力をそもそも信用していなかったに違いない。その懸念は、政府と軍が無益な犠牲を国民に強い、一億玉砕さえ説いた第2次世界大戦の体験があまりにすさまじかったから理解できる。同じ懸念を今、ウクライナを見て覚えるのだ。

 

 人々が現に居住する地域で行われる地上戦は、凄惨(せいさん)を極め得る。4人に1人の住民の命が失われた沖縄の地上戦を思うとよい。第2次大戦中、独ソ戦の戦場となったウクライナは住民の5人に1人を、隣のベラルーシは4人に1人を失ったという。今、ウクライナはロシアの周辺国への侵攻を止める防波堤となって戦っているとか、民主主義を奉じるすべての国のために独裁国家と戦っているとか言われるが――ともにウクライナも述べている理屈だ――再びウクライナで地上戦が行われることを私たちがそうした理屈で容認するのは、何かとても非人道的なことに思える。米国などは、徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めることとうそぶくが、ウクライナに住む人々の人権はどこに行ってしまったのだろう。

 

 20世紀を通じ、とくに2度の世界大戦を経て、私たちの間には国境を越えて人権の擁護が果たされなければならないという規範が形成され、冷戦が終わった1990年代以降はこれがいよいよ揺るぎないものになったと見えた。だがそうでもなかった。欧米諸国の政府は、間断なくウクライナに武器を供給し、ロシアへの制裁における一致団結ぶりを誇示することで和平の調停を困難にし、戦争の長期化、すなわち更なる人的犠牲の拡大とウクライナ国土の破壊を促している格好にある。そしてこれが主権、つまりは自己決定権をもつウクライナが望み、ウクライナ人が求めることなのだからそれでよいのだとする。また、国際秩序を乱したロシアに代償を払わせるという主張も繰り返される。しかし国際秩序の正義のためにウクライナ1国が血を流し、自らの国土で戦闘を続けよというのは、正義でも何でもないように思う。

 

 色々なことが少しずつおかしい。米国連邦議会で演説したゼレンスキー大統領は、誰もが知るキング師の言葉、「私には夢がある」を引いて軍事支援を求め、喝采を浴びた。だがキング師といえば、戦後の世界の最良の獲得物の一つである「非暴力主義」の指導者だ。この引用は果たして適切なのだろうか。

英国議会では「いかなる犠牲を払っても領土を守るために戦う」というチャーチルの言葉を引用する。その「戦い」はチャーチルにおいては主として自国の外での戦闘を意味したが、ウクライナにとっては自国の領域内での戦闘だ。「いかなる犠牲を払っても」と言ってよいのだろうか。

 犠牲を問わない戦争は、かつての日本や旧ソ連にはなじみ深いものだ。だが個人の生存は国に先行する価値である、国は個人のために存在する、という今日の欧米の国家観からは出てきにくいものだ。この国家観の下では、国が国民に及ぼし得る犠牲には限度がある。そしてそうした個々人の命の重みの上にこそ民主主義も成り立つ。この国家観を有する人々が勇敢でないとか利己的であるというわけではない。むしろ自己犠牲の精神には富むのかもしれない。だが自己犠牲を他の国民に無理強いすることはしないのだろう。

 実際、結束を強調する欧米の指導者にも温度差がある。英米や中東欧諸国ウクライナがロシアの敗退まで戦うことを望み、独仏伊は交渉による解決を望むという。さらに世論は総じて厭戦(えんせん)的だ。たとえば英独仏伊にスペインポルトガルスウェーデンフィンランドポーランドルーマニアを加えた欧州10カ国における世論調査が、次のどちらの考えに近いかを回答者に尋ねている。今最も重要なのは「できるだけ早く停戦すること、たとえウクライナが領土を失っても」か、それとも「侵略したロシアを罰すること、たとえより多くのウクライナ人が犠牲になっても」か。全体では前者を選んだ「和平派」が35%で最大の声をなし、これに対し後者を選んだ「正義派」は22%であった。

 国別では、和平派はイタリアドイツで50%前後を占め、フランスルーマニアでも40%を超える。実際、正義派が和平派を上回ったのはポーランドだけであり、その他の国では正義派は15%から25%を占めるにすぎない。いち早くウクライナに戦車を提供したチェコでも、すでに世論調査では、支援はもう十分だとする回答が79%に上っていた。米国では、ニューヨーク・タイムズの社説が和平派に相当する立場を宣明し、現実主義外交の泰斗、キッシンジャー氏が停戦を促す。現在の状況を、世界がそれと知らずに大戦に突入した第1次大戦前の状況にたとえる議論も散見される。

 さて和平派の立場は、戦争がもたらしたエネルギーや食料の不足などの経済問題、核兵器の使用も含む戦争のエスカレーションへの懸念から説明されることが多い。だが、これらにあわせて戦争による犠牲の拡大について道義的な疑念が広く存在することを忘れてはならない。また、ロシアを、プーチン氏を敗退させることが現実的にどこまで可能かも疑問だ。

 そもそも戦闘はロシアの外で行われている。かつて中国大陸に侵攻した日本が、欧米諸国による経済制裁や膠着(こうちゃく)する戦線に苦しみながらも、決して軍事的に譲歩しなかったことが思い浮かびはしないか。結局、日本が大陸を諦めるのには日本本土の焦土化を要した。さらに戦争の長期化は、ロシア国内におけるプーチン氏の権力を弱体化するのではなく、強化する可能性があることも留意すべきだ。戦時体制を通じて全体主義体制が成立する可能性すらある。

 最近よく考えるのは、プラハとパリの運命だ。中世以来つづく2都市は科学、芸術、学問に秀でた美しい都であり、誰もが恋に落ちる。ともに第2次世界大戦の際、ナチスドイツの支配を受けた。プラハプラハ空爆の脅しにより、大統領がドイツへの併合に合意することによって。パリは間近に迫るドイツ軍を前に無防備都市宣言を行い、無血開城することによって(大戦末期にドイツの司令官がヒトラーのパリ破壊命令に従わなかったエピソードも有名だ)。

 両都市は屈辱とひきかえに大規模な破壊を免れた。プラハはその後、ソ連の支配にも耐え抜くこととなる。これらの都市に滞在すると、過去の様々な時代の息づかいを感じ、破壊を免れた意義を実感する。同時に大勢の命と暮らしが守られた事実にも思いが至る。

 2都市に訪れた暗い時代にもやがて終わりは来た。だがその終わりもそれぞれの国が自力でもたらし得たものではない。とりわけチェコのような小国は大国に翻弄(ほんろう)され続け、冷戦の終結によりようやく自由を得る。プラハで滞在した下宿の女主人は、お茶の時間に、共産主義時代、このテーブルで友達とタイプライターを打って地下出版をしていたのよ、といたずらっぽく語った。モスクワ批判と教会史の本だったそうだ。私は彼女がいつ果てるともわからない夜に小さな希望の明かりを灯(とも)し続けていたことに深い感動を覚えた。

江川紹子

 

(ジャーナリスト・神奈川大学特任教授)

2022年8月12日10時58分 投稿

【視点】

 降伏推奨派(で、いいんですよね)の意見をじっくり読む機会が持てたのはよかった。  ただ、どうも釈然としない。今、「いいんですよね」と確認したのは、この論考では「できるだけ早くの停戦」を求めるけれど、そのためにはどうすればいいか、という具体的方法に言及されないからだ。読み返してみても、結局のところ「ウクライナは早くロシアに降伏すべき」と述べているようにしか受け取れないのだが、違うのだろうか。  「和平」とか「停戦」という言葉は心地よく響くが、この論者は実際に「降伏」した後、本当に「ウクライナに住む人々の人権」は守られる確信があるのだろうか。ブチャで起きたことを知った今、私には、そういう楽観はどうしてもできない。「降伏」によって救われる命もあるだろうが、逆に奪われる命や人権を無視していいとは思えない。  また、ナチスドイツに占拠されたプラハやパリを、降伏してよかった例に挙げているが、両都市ともドイツ軍の占領から解放されたのは、赤軍や米軍などによる軍事力の行使の結果だ。しかも、チェコの場合、長くソ連支配下に置かれ、そのために少なからぬ命が失われ、人々の人権は制約された。  そのうえ、ウクライナの場合、プーチン大統領歴史観からすると、他国を侵略するのではなく、本来の領土を奪還する、という認識のようなので、一度降伏すれば、半永久的にロシアの一部とされる可能性が高い。  もちろん、戦争の長期化はあってはならない。私も、一刻も早い停戦を望んでやまない。ゼレンスキー大統領の言葉に「正義」の基準を求めるかのような風潮に、違和感を覚えることもある。それでも、ロシアに降伏するとはどういうことかを考えると、安易にそれを口にできない自分がいる。停戦は、まずはロシア側に求めたい。

 

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