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ジェンダーを考える力――学ばないと安易な結論にとびつく

  • ジェンダーを考える力――学ばないと安易な結論にとびつく

いかは、ジェンダー論講義録に書き足したものです。

 

以下の岡崎記者の記事を見て、違和感を持った。コメントの人の指摘も適格だが、それ以外にも、どうしてそういう論理展開になるのかなとすぐに感じた。

私が以下の記事に疑問を持ったのは、昔、ジェンダー論の基本を学んだときに、米国の女性アナウンサーと日本の女性アナウンサーの声の高さの差異の研究を知ったこと(米国の方が低い)、その後、私の講義でよくそれも資料として使っていたからである。そういう基本を踏まえているからである。

簡単に言うと、声の高さは生物学てなことだけに規定されているのではなく、育てられ方や社会の希望、社会の意識、社会での役割、職業・職場で求められることなど社会的要因、つまりジェンダーという社会的な性の側面があると認識すべきということである。女性の魅力や期待・役割がどうなのかにかかわる。女性への期待が、男性とは別に、声が高い方がいい、キレイ・かわいい方がいい、補助役割、明るい感じなどとして求められるなら、声も明るく高く、はしゃぐ感じや「その社会での女性らしい」というイメージに近い声や話し方が好まれるであろう。それを前提とすると、女性アナウンサーはそういう期待に応じた声や話し方になる。そういう期待に日米で差異があるということが、声の高さの違いということには関係している。

声の高さは、それは子供の可愛さと近い面があり、しっかりとした冷静さや論理性などは重視されないということが関係している可能性がある。首をかしげるというのも、赤ちゃんに近いのでかわいいと感じるという。日本社会では、女性には「かわいさ」が求められることが多く、そこへの批判的反省的な意識の人が少ないように思う。アニメ声的な人はそれは子供っぽい話し方という面があるので、もし大人になっていく中で、自分の「話し方や声」が、アニメっぽくなっていると知って、それは変えたいと意識したら変えていくであろう。しかし、「かわいいのでいい」と思っていると変えようとしないであろう。その様に社会に環境とそれへの自分のスタンス、パフォマンスの選択によって形成されていくのがジェンダーなのである。

私はディズニーランド好きの女性が大人になっても無邪気に、それを話し、そこに「子どもっぽいのではないか」という自分を省みる視点がないのを私は問題があると考え、それは「社会の幼稚化」と考えている。オタク化が全体化しているよう側面があると思う。

アニメを好きな人が多いこと、テレビなどでもアニメのような話し方のキャラを無批判にかわいいからということでよく出しているし、関心の持ちかた、会話の展開の仕方、興味あることなどが、幼稚化していると感じることが多い。若い女性は、そういう幼稚化と重なる女性の可愛さを無批判になぞっていることが多い。それを期待されているし、それでいいという意識が多いのは、自立とかジェンダー平等への意識が低い面があると思う。だから「かわいい」という言葉が日本では非常に多用され、それが国際的にも広がるような概念になったのである。推し活という点でも、大人になってもアニメやアイドル的なものばかりに注意を向けるのは、子どもっぽいことや「非政治化した状態」への批判の感覚がないことに関係していると思われる。ここの話は深めるべき点と思うが、いまはこの程度の直感的な記述にとどめる。

一言で言うと、日本社会は、大人になるということ、自立や思考力、政治的意識綾主体化より、子どもっぽいようなこと、趣味、かわいさ、非政治性などを重視する傾向が強いということである。

話を戻して、そういうことと女性の声の高さが関係しているのではないかという話である。男性もジェンダー化から逃れてはいない。社会の中で選択して行為遂行の積み重ねで自分というものはできていく。私は男性だが、話し方や声の高さなども、自然に備わったものではなく、一定意識しているし、社会的に規定されている面があると思う。あまり子どもっぽい話しかたをすると、低く見られると意識し、自分なりに、こうありたいという方向に自分の話し方を近づけている面がある。が、そこに小さいころから見てきた男らしさのイメージが絡む。女優、男優なども、作品・役・演技によって話し方や高さ、ふるまいは大きく変える。

社会的にどういう影響を与えるかや字部の振る舞いがどう受け取られる可能性があるかを意識したときに、女性アナウンサーに求められているものが男性とどう違うのかという問題がかかわる。米国のメディアにもジェンダーがあり、服装・化粧なども含め女性らしさを求められている面もあるが、しっかりしているという面が日本より重視されている面も影響しているであろう

。だから、「日本の方が、女性は自分らしく話をしている」とは単純には言えないのは明らかである。

「だから以下の記事の論理に私は違和感を持った。「自分らしい話し方」を自然だ、とみる本質主義を乗り越える必要がある。

以下の記者にはそういうジェンダー論の基礎的素養が欠けているので、他の研究視点の可能性が見えていなかったということではないのか。「思い込み」から脱するために、頭を柔軟かくし、他の文化や感覚の可能性も考えられるようになっていくことが大事である。

以下、記事に私のコメントを書きいれる。

***

女性候補の声の高さ、男性だけが気にする? 研究が示す無意識の偏見

朝日新聞編集委員・岡崎明子2025年7月12日

記者コラム「多事奏論」 編集委員・岡崎明子

 

 かつて英国のサッチャー首相は、就任前と後で「声」を大きく変えたことで知られる。ロンドン・メトロポリタン大のアン・カープ教授の著書「『声』の秘密」によると、権威を得るために、声の周波数を60ヘルツも下げたそうだ。その結果、女性の声の平均と男性の平均のちょうど中間あたりになったという。

 努力の跡は当時の映像からもうかがえる。首相になる前のサッチャー氏の声は柔らかく、優しい。私としてはこちらの方が断然、魅力的に思える。

 

伊田コメント→

カーブ教授の著作に影響をうけすぎているのかもしれないが、以下の議論の展開が社会学的な合理性を基準にすれば、おかしなことだらけである。

まず、この出だしで、「私としてはこちらの方が断然、魅力的に思える。」というのは、個人の感覚に過ぎないという自覚が欠如している記述と思った。人によって感覚はかわるし、男性の政治家も含め、どういう話し方がいいかも個人差がある。以下の展開をみると、この記事を書いた岡崎記者は「女性は女性らしい声の他亜傘やはなし方が好ましい」という感覚を持っていて、男性の話し方と女性の話し方に違いがあるのは当然と思ているようなフシがある。それはジェンダー論として前提にはできない。例えば、私・伊田は、サッチャーの政策・再発言内容・人権感覚にを踏まえて反対するだろうだが、声が低いことや話し方で批判する気はない。岡崎さんは「私は男性の話し方も、前のサッチャーのようなのが好ましい」と言いたいのか。男性は別の話し方でいいと言いたいのか。打がそんあことはは考えていないで「こちらの方が断然、魅力的」と話しているのだろうと思われる。そういう問い自体を自分で持つ必要があるテーマなのである。

 

 当時の英国の有権者も、散々な評価を下した。「不自然に異様に低く、人を見下す響きがある」「犬が死んだような口調で、投票する気にならない」と揶揄(やゆ)したという。パワーを得るための努力が、逆に攻撃材料になってしまった。では、日本ではどうなのだろう。

伊田コメント→

だれが攻撃しているのか。そこを考えないのがおかしい。「有権者も、散々な評価を下した」と言い切る、この単純さにはあきれる。著作に書いているからと無批判に受け取るのがおかしい。左派と右派で出は投票行動は変わる。サッチャーの評価も変わる。話し方で、こんな差別的な言い方をするるような意見が、マトモとは私は思わない。サッチャーを話し方も政策も含めて支持した人も多くいたのである。「魅力的でない」という感覚はとても従来の「女性はこうあるべき」というジェンダー意識にのった感想のように思える。

それは、外見、美人か「ブサイク」かで投票先を左右するようなものと類似的ではないのか。そういう人がいるのは「事実」である。男性候補者もグッドルッキングの方が人気を得やすい。そういう研究は多くある。しかし政治や選挙はそれでいいのか。

それを、前提視・自然視するようなかきぶりだ。「不自然に異様に低く、人を見下す響きがある」「犬が死んだような口調で、投票する気にならない」というような意見は、ほんの一部の感想にすぎないと判断すべきだ。不自然というが何が自然か。男性なら自然なのか。政治家をみるとき、マトモな人は政策を中心に見ていく。「見下す言い方」というのは男性・女性、声の高さの問題ではなく、損ヒトのの思想、人権感覚、人間関係の在り方が反映している。声を低くしても、「人を見下さない優しい感じ」は出せる。

 

 

 政治学を専門とする東大の鹿毛利枝子教授らがこんな論文を出している(https://doi.org/10.1017/S1468109922000354 )。20~50歳の414人の有権者に声の高さが異なる架空の女性候補のスピーチを聞いてもらい、投票したいかどうかを尋ねた。

 一般的に声が高い人は低い人に比べ「真実味や力強さに欠ける」との印象を持たれるという。そのため欧米では、声の低い政治家や候補を好ましいと感じ、信頼を置くという研究が多い。サッチャー首相だけでなく、米国のヒラリー・クリントン大統領候補もドイツのメルケル首相も、声を低くしたことが知られる。

 鹿毛さんの実験によると、日本の有権者は、欧米ほど声の高低に敏感ではなかったという。

 

伊田コメント→

まず鹿毛利さんの見解が正しいと限らないし、その研究の示唆するところがそれだけなのかも検討すべきである。だがここに出ている情報だけでも、私には違和感がある。政治という者がそもそもリーダー的なものを求めがちで、私はトランプのようなリーダーを好まないが、頼もしいという人もいる。それを基準に答えている人の問題は、声の高さ亜d家でなく、政治化yリーダーに何を求めるかにかかわる。私は男性の政治家にも優しい感じを求めるので、えらそうで断定的で攻撃的な言い方には批判的だ。だが声が低くても、男性的な話し方でも優しい感じは出せる。だから女性政治家で、落ち着いたトーンで低い声というのは、無理にこわもてで攻撃的な男性の話し方をしているとは断定できない。私はヒラリークリントンの声の高さが無理に低くしていてyくないと思ったことはない。そうなると岡崎さの主張とはずれてくるではないか。

岡崎記者は、「声が高い人は低い人に比べ「真実味や力強さに欠ける」との印象を持たれる」ということを批判するのか、それは人間の傾向として前提として考えていくのか。又声の高さだけでなくその話しかたや振る舞いも含めて、メルケルもヒラリークリントンも見ていくべきだし、彼女らが自分の「自立した」生き方として単に選挙用に演技したのではなく、自分が女性ジェンダーに従属しないスタンスを確立していく中で話し方や声を選んだとも解釈できる。すると評価も変わってくる。岡崎さんもジェンンダーびょうづを意識しているようなので、sの観点から女性が従来より低い声で話すこ女を好ましく見ることもできるはずである。

だが岡崎さん野記事は一貫して、女性政治家は自分の自然な声を選挙・政治様に無理に下げているという視点で書いているから、読んでいて、違和感だらけになるのである。ヒラリーやメルケルサッチャー、そしてハリスが自分で話しかたを選択しているということへの肯定的信頼や尊敬心が欠けているのではないか。

 

 

 「これは、私も予想外の結果でした」

 ところが男女別に分析すると、興味深い傾向が明らかとなった。女性有権者女性候補の声の高低にあまり影響されない一方で、男性有権者は低い声の女性候補を好んだという。

 「推測ですが、女性同士はふだんやりとりする中で、声の高低によって能力やリーダーシップが変わるものではないと実感している可能性があります。もしかしたら男性の方が、女性の声に影響を受けやすいのかもしれません」

 

伊田コメント→

ここも、鹿毛利さんの見解だけを紹介しているようだが、別の解釈もありうると思った。声の高低によって能力やリーダーシップが変わるものではない、とは言い切れない。又有権者の方も、女性らしさへの批判性やフェミニズム感覚がなく、「女性らしい話し方」の候補者を好ましく思っているのかもしれない。

そして男性も多くが「女性らしさへの批判性やフェミニズム感覚がない」がゆえに、日常では従来の性別役割や女性性を女性に求め、しかし政治家としては「男性のような強さをもとめる」から、上記のような統計の差異が出ているだけかもしれない。女性が女性の声で、「女性らしい高い声の出し方」に共感的とすればそれも声に影響をうけているともいえる。低いのも高いのも好きだからと言って、声に影響をうけてていないとは言えない。また男性でも、美人とか、っ若いとか、女性らしい感じだということで津評する人が多い現実もある。

つまりいろいろな評価が考えられるときに「男性の方が女性の声に影響をうけやすい」というようなことは言えないし、言ったとしてもそれで何を言いたいのかが問われる。私はこの調査の設計自体にも問題があると思うし、分析の評価にも疑問がある。

「男性の方が女性の声に影響をうけやすい」というのを、岡崎記者は「悪い意味で」とっているが、男性の方が政治家の冷静さを期待していると言う解釈もできる。「いや声の高さと冷静さは関係ない」という反論は、それなら声の高さを問題にする必要はないとみえるし、またそうとは言い切れないという反論を予想していないともいえる。そもそも「声の影響を受けること、声ン高さや話し方から相手を判断することは悪いことなのか。私は「話し方」を意識して入れているが、岡崎記者は「声の高さ」に絞っている。岡崎さんは最初、「前のサッチャーの話し方が魅力的」といってたではないか。そういうスタンスからすれば、男性の方がちゃんと声の変化を重視しているという論理展開もできる。つまり、様々なことが考えられるときに、岡崎記者は、「男性の方が女性の声に影響をうけやすい」からだめだ、女性は「声の高低は関係ないとしているから正しい」、という可能性だけを見ているからダメなのである。

しかも男女で本質的にそうした差異があるかのように、グループで見過ぎで、実は女性の中にも男性の中にもLGBTQの中にも、子の声や話し方でも多様なとらえ方があることを重視していない。ある調査で少しの差異があるから「学問的・統計的に有意な差異だ」というのは、「ある面」でしかない、少数を軽視している面もある。多数・少数だけで見るのは、すべてをとらえているのではなくただの傾向とか状況の一面を把握しているだけである。選挙で当選しなかったら、その当選しない人や政党への投票を軽視することと類似的であり、思考停止の典型である。そういう多数重視、主流秩序重視、

統計の少しの差をもっていろいろいう発想」を見直そう、少数の人の意見の存在をちゃんと見ようということを私は重視したいとおもう。

 

 

鹿毛さんの話を聞きながら、何人かの女性政治家の声を思い出した。確かに「初の女性首相候補」として歴代、名が上がった女性のほとんどは低めの声だ。

 彼女たちが意識して低い声を出しているのか、あるいは声が低いからその立場にいるのか、それはわからない。

伊田コメント→

女性首相候補は、いい悪いを別にして、おおむね実力があると思うが、それは政策や説得力含め総合力だろう。声が低いからという一要因でみるべきではないし、上記でヒラリーにrついていったように、しっかりした人格のありかたを自分で選び形成したと考えらっるので、女性の声の低さを否定的に見るべきではないというのが基本と思う。そういうときに、「女性政治家が意識して低い声を出しているが、それは無理している、男社会・男基準に合わせているだけ」かのような、この記事のとらえ方は一面的過ぎると思う。

 

 

 ただ鹿毛さんは、日本で女性の政治家が少ない理由の一つとして、プライベートでは「女性らしさを示すために声を高く」、政治の世界では「信頼されるために声を低く」といった、相反する期待が求められる社会規範も関係するのではないかと指摘する。男性は内でも外でも声が低い方が魅力的とされ、女性のようなダブルスタンダードに葛藤する必要はないとも言う。

 

伊田コメント→

ここも間違い。女性の政治家が少ない理由として、ここに焦点を当てるのはあまりに無理筋だ。男性に葛藤亜gないというのもキメツケだ。声の高い男性もかなりいる。男性も、声が高いとか、感情的とされるとだめと思い、様々な競争、パワーゲームをしている。「男性は自然と生きている、葛藤がない」わけではない。女性に二重の規範がかけられているというように見ることもできるが、それはまさにジェンダー秩序の問題であり、男性にもジェンダー秩序がかかっている。そこを批判的に見ていくというフェミ的なスタンスなら、多様な人が多様な声を出せるようにという指向性の主張は分かるが、その人の主観や「生物的な自然」というようには、「声の高さや話し方や振る舞い」はとらえられないという視点を踏まえていくべきである。上記の記事は「生物的な男女二分法、その差異の自然視があっての見解なので、違和感がある。

 

 

 そもそも声を低くすることは単なる音の調整ではなく、「生まれ持った声」というアイデンティティーを押し殺す行為だ。それは自己肯定感にもかかわる。

伊田コメント→

以上ですでに述べたが、「「生まれ持った声」というアイデンティティーを押し殺す行為」というのは一面的である。ここには本質主義への批判的な意識がかな薄いことがあると思われる。声は社会的なものの面がかなり強いのである。

声だけでなく、「生まれ持った本当の私」とは何かというのが、哲学・思想・心理学などでもよくテーマになることがある問題で、真っ白に無規定・非社会的・純粋な「私らしさ」「私の本質」「本当の私」があるというのはかなりあやうい考え方である。近代主義的である。人間は社会関係の総体という言い方もあるように、かなり社会的な存在だということで、ジェンダーというものもその一つだ、だから社会構築主義的な視点がおおむね、共有されている。この岡崎さんの記事は、そういう視点が欠如している。

 

 

 もしある女性候補の演説を聞き、「何か頼りない」と思ってしまったら。そこには無意識の偏見が潜んでいるかもしれない。その偏見に気づくことは難しいからこそ、女性が政治に参加しやすくなる制度や仕組みが必要なのだ。

伊田コメント→

そういう解釈は、たくさんある検討すべき点のひとつと思うならわかるが、ここに絞るところが、まさにジェンダーを自然死している考え方で、説得力がない。

女性は、こういう話しかただという意識の中に、従来のジェンダー性役割があるのではないか、つまり男性候補者にも、岡崎さんはおなじ問いを投げかけるべきなのである。「頼りない」とは何なのか、色々考えるべきで、「女性の声の高い話し方を頼りないと思うべきではない」というのも、本当かと疑うべきなのである。例えば男性にたいして「子どもっぽく高い声だな」と思ったらダメなのか。そこに話の内容が論理的かフェイクがあるか、キメツケ的か、えらそうか、受容的か、人権意識があるか、非暴力的か、などいろいろ考えて、その人を判断するだろう。だが話しかたがうまい、人を操るのがうまい天才もいる。色々考えるべき時には、ある女性候補の話し方や化粧、服装、話の内容などで、この女性は女性ジェンダーに無批判なんだなという判断をすることもありうる。米国の共和党大会を見ていると一定の、共和党的な女性の服装や振る舞いもあった。同じことは男性にも言える。そういうところを捨象した一面的な判断が「女性の自然の声を抑圧するのはおかしい」という見解である。そして、何を言いたいのかがあいまいになっているのが、「女性候補の声の高さ、男性だけが気にする?」という表題である。私がここまで述べたことを自覚していないからこういう表題になっている。ポイントを置く点がおかしいのである。日本の女性政治家の声の高さへの批判視点や受け取る女性の感覚への批判視点の可能性が全くない表題である。

なぜ日本社会では女性の声は政治家だけでなく女性アナウンサーも、その他でも米国に比べて高いのか、そこには日本社会のジェンダ秩序への無批判性があるかもしれないという様々な角度から考えてこそ、「思考」である。この記事を読む限り、岡崎記者こそ、ひとつの見方にとらわれて、自分の無意識に自覚的でないのである。そこが分かっていないからこういう結論を書けるのである。表題も含め、この記事の論理展開には違和感が多かったのは、こうしたいくつもの問題があったからである

 

 

 声の印象にとらわれず、「リーダー=男性」という思い込みが崩れたときに、「鉄の女」でなくてもトップに立つ女性政治家が生まれるのかもしれない。

伊田コメント→

「リーダー=男性」という思い込みがなくなるのはいい。だがそれはまず、男性だけでなく女性有権者にもそういうべきである。次に、その思い込みがなくなるというのは女性がリーダーになるのが普通ということだが、そうなったときに「声の高い女性がリーダーになる」とは限らない。声の低い女性がひどいわけでもない。ところがこの文脈では、女性は無理して声を低くして男性のように低い声で冷たい言い方で振るわないといけないと、否定的にとらえ、ましてそれを「鉄の女」という言葉で表している。ここには、ヒラリーなどしっかりとした女性リーダーが「鉄の女」で、無理していて、女性本来の声を抑圧しているかのような捉え方が潜んでいる。だからこの最後の結論がおかしいのである。しかも何度もいうがサッチャ―が「鉄の女」と言われたのは、主な原因は、その政策が保守で、労働組合ストライキ案度を弾圧するスタンスをとって社会民主主義新自由主義の方向に、つまり弱肉強食の方に変えたからであり、弱者に冷たく、またフォークランド紛争で戦争をするなど、攻撃的だったからである。

考えてほしい。記者の岡崎さんは男にも「鉄の男」でなくてもいいとか「鉄の男」ではだめだという結論を言いたのか。それとも男は「鉄の男」的なのが自然だからいいというのか。女性で声がもともと低い人は、駄目なのか。サッチャーが「鉄の女」と言われたのは、その話し方が主因ではなく、上記したように非常に市場中心主義で弾圧的だったからであるという内容がある。そこを抜きにして、話し方・声の高さがらみでサッチャーを低い声で怖い感じだと批判しているのか。女らしくないと批判しているのか。どれも違うというだろうが、では何を目指しているのかが自覚できていない記事なのである。そうではないというだろうが、表題も、結論部分も趣旨が不明だ。文脈を読めば「女性は高い声が自然で、低い声のヒラリーなどは無理している」というような主張になるが、そこが自覚できていない、そういう読み取り方をされることが自覚できていないということがこの記事には潜んでいる。おおくの無自覚が絡んでいる。ジェンダーにかかわることを書くなら、社会構築性や「男にも言えるのか」とかも考えていくのは基本である。私は男性も女性も多くはジェンダー平等に敏感でなく、既存の状況に合わせていると批判的に見ているので、男性はだめだが女性は、女性の自然らしさを正しく見ているというような分析には、違和感を感じる。

以上、岡崎さんの記事を契機に、ジェンダーを考えるとはということの入り口の話を書いてみた。

 

 

この記事に対するコメントがあった。

三浦麻子大阪大学教授=社会心理学

2025年7月12日7時0分 投稿

【提案】

私ならこの記事には「女性候補の声の高さ、気にするのは男性だけ? 研究が示す無意識の偏見」という見出しをつけます. 今の見出し「日本では気にしない?」は,紹介されている鹿毛先生の研究で「日本の有権者は、欧米ほど声の高低に敏感ではなかった」ことを指していて,それもまた事実なのでしょうが,論文あるいは記事全体の主張と合っていない(かえって読者に伝わりにくくなっている)と思います.

 

伊田コメント→

三浦さんは控え気味に批判していますが、私は、上記の様にかなり根源的に批判しました。

女性候補の声の高さ、男性だけが気にする?」を「女性候補の声の高さ、気にするのは男性だけ?」と変えるだけでは、私は不十分と思います。「女性政治家・候補の声の高さ、国よって違うのはなぜか。そしてそれをどう評価できるのか。また男性と女性で評価が異なることをどう考えるか?ジェンダー平等になるときの女性政治家の声はどうなるのか」というような射程で考えるべきことなので、元の記事の表題は、射程の広さが見えていないことの告白になってしまっているのである。