朝日新聞に入っている「GLOBE」というミニ新聞の記事で、少し興味深いものがあった。
「『心の筋トレ』で俺は変わるか?」というもの。ネットでも見れる。
http://globe.asahi.com/news/2017021400001.html
52歳のおじさん記者が、米国でマインドフルネスを体験したり、タイの仏教寺院で、瞑想の修行したりして、日本社会で汚れたオヤジの自分、人生を後悔しているタラレバオヤジが変われるか、という企画記事。
出世できなかった自分、「共感」「つながり」が嫌い、「他人が自分に心から手を差し伸べるなんてあり得ない、と思っているオヤジ」という人物。
そして「安心して生きたい」と思ってるひと。
私の意見。あまりうに浅い。精神世界系の入門だけ。このひとのこれまでの人生で、深く考えた形跡がない。
いい年してそんな瞑想とかの小手先で、染み付いた価値観体系が変わるはずない。
この記者が実は取り組もうとしたのは、主流秩序にからむ全体の問題。
精神世界、瞑想、宗教をすこしかじってなにか得られるようなものではない。
ためだねー
主流秩序を意識し、それにどう向かうかを考えることこそ必要。
人と繋がれるか? それへの応えは、連帯行動すれば繋がれるよ、ということ。
困っている人を支援サポート、よりそえば。
この人、毒舌後輩記者なとを意識するのがため。
こんなことをやってるのがダメ。
「主流秩序の連立方程式」(後述)を意識して生きる、態度価値を編み出す実践をするかどうかの問題です。
安心して生きたいなら、小手先技術の瞑想ではなく、主流秩序へのスタンスを確立して実践をして生きていけばいい。
行き詰まった自分の人生をなんとかしたいというが、
米国の精神世界系の「成功者が自分の更なるバージョンアップをはかるもの」でダメなのは当然。
足りなかったものを埋めるようなのでもだめ。
生きづらいから、なにか宗教に頼るのもダメ。
「悟りを開く」系はだめです。だからこの記者がいったときに、この程度の対応をした取材先も主流秩序にのって、不安に付け込む商売をしているなあと思う。
浅いレベルの宗教ビジネスと思う。
お寺にいった直後「他の人の幸せをねがうようになった」という。
それをいっときのものにせずに、持続的に日常的空間にいれるのが大事。
でもたいていはその特別空間(お寺)の一時的なものなんだよねえ。
愛といった何の根源性も批判性も変革性もない抽象的なことをいっててもダメ
具体的な実践を。
宗教や精神世界は入り口にすきない。
山奥のお寺けではなにも変わらないだろう。
だからこの記事は、浅い。
40年前にも別の記者が同様の取材をして同様に記事を書き、そのひとはなにもかわらずその後の人生を主流秩序に合わせて生きただろう
同じ様に30年前にも別の記者が同様の取材をして同様に記事を書き、そのひとはなにもかわらずその後の人生を主流秩序に合わせて生きただろう。
そして20年前も、10年前もあったような記事だ。
何も変わらないまま。
注
◆主流秩序論のめざすもの「社会問題の連立方程式の解を出すための装置」
主流秩序論とは、「A差別(責任)、B自分の自由や幸福、C適応サバイバル、D洗脳、E〈たましい〉、F競争、A~Fを満たす総合的な「最適な解」を探る連立方程式を解こうとすること
主流秩序論について考えようとしていることは、
A 差別(格差、貧困)問題の解決 、社会問題への責任問題
B 自分の自由や幸福の拡大(主流秩序の上昇による幸福を含む)
C 主流秩序(強い人)に合わせることで生き延びる現実主義(適応サバイバル)
D 洗脳されている、操作されている問題
E 自分が本当にしたいこと 〈たましい〉
F いつも競争にさらされるしんどさ(過労死問題)